活躍する同窓生
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信州商人道の教え
高野 登(高24回) 東京都在住 戸隠村立戸隠中学校出身 人とホスピタリティ研究所 代表 「ホテルマンが実践している本当の気づかい」他 著書23冊
長商を卒業したあと、日本ホテルスクールに進み、卒業後に北野建設東京本社に入社した。高校の大先輩である故北野次登社長が経営する会社だ。北野建設は、当時ニューヨークのホテルを買収したばかりで、ボクは「ホテル・キタノ」の開業要員として採用された。東京での研修を経て、1974年にニューヨークに赴任した。20代のボクにとって、アメリカはとても刺激的だった。いろいろな誘惑も多かった。しばらくしてバブル景気が始まり、いわゆる「うまい話」も絶えず舞い込んできた。そんな状況の中で、大きな間違いも犯さずに、20年間を過ごすことができたのは、高校時代に叩き込まれた「長商魂」のお蔭だと思っている。当時、数学を担当していた故森山茂平先生は、授業中にしょっちゅう脱線して、それが実に面白かった。こんな話もしてくれた。
「いいか、よく聞け。信州の商人は、たとえ最小の結果しかみえなくても、最大の努力を惜しまないものだ。それが商人道というものだ。それなのに今の商人達の多くは、最小の努力で、最大の儲けを得ようとしている。実に情けない話だ。お前たちには長商魂を胸に秘めて、信州商人道を貫いてほしい」。
まだバブルが始まるだいぶ前の話しである。いま振り返ってみるとその慧眼に驚かされる。
森山先生の教えは、アメリカに渡ったあともずっとボクの心に残っていた。アメリカでのバブル期の誘惑は半端ではなかった。ビルを買う、ゴルフ場を買う、ビジネスを買う。その手伝いをするだけで、千ドル単位の小遣いが稼げた。一歩間違えれば、大変なことになる。そのたびに、信州商人道の教えが心に浮かび、ブレーキをかけてくれた。アメリカでも、帰国した後も、ボクの働き方、在り方を支えていたのは、この信州商人道と長商魂の教えであったことは確かである。
頑張れフレ・フレ長商

塚田 篤雄(高27回) 長野市在住 長野市立柳町中学校出身 長野県商店会連合会 会長 一般社団法人北信越霊柩自動車協会 会長 長野市商店街の活性化連絡協議会 会長 (株)まちづくり長野 取締役 善光寺御開帳奉賛会 副会長 長野商工会議所 参与 他多数 叙勲 瑞宝単光章(平成28年秋)
私は生まれも育ちも長野市、善光寺の東側に位置する東之門町で葬祭業を生業とする家で育ちました。小さい頃の遊び場は近所にある神社、城山の林や川でした。城山は今の様に整備されておらず、動物園が出来たのも私が五歳のころでした。当時は善光寺を中心としたエリアが市街地で、子供たちも沢山いましたし、生活に必要なものはすべて揃うほど商店の数も多く、賑やかでした。
私は男三人兄弟の末っ子だったので家業を継ぐ気はなかったのですが、兄二人が家を出ていき、小さい頃から両親の働く姿を見てきましたので、「頼む」と言われて継ぐことを決めました。大学進学を諦め新潟で二年間家業の修行をして戻ってからは四代目として葬祭の仕事に誇りをもって取り組みました。今、コロナ禍葬儀の在り方も大きく様変わりしています、それでも大切な方を送る志は今も昔も変わりません。残されたご家族に寄り添い、故人を敬い、人生の大切な節目のお手伝いをさせていただいております。
高校時代はソフトテニスで始まり、三年間朝練習、昼コート整備、夕方練習に明け暮れる日々を送っていました。学業もそれなりに悪くはなかったと思っています。三年生の時、福岡県のインターハイに出場し、初めて飛行機に乗ったことが大変嬉しかったことを思い出します。続いて、茨城国体にも出ることが出来ました。まだ破られていないと思いますが、兄弟三人とも長商のソフトテニス部で長野市長杯を優勝しています。私としてはどうしても取りたかった大会だったので、プレッシャーが大きかった事を覚えています。
長野商店会連合会との関わりは、自分の町の道路拡幅計画がきっかけです。昔ながらの商店街を残したい、拡幅されると商店が無くなってしまう事態になります。地元商店をまとめて、「東参道商店会」を結成、連合会に加盟して長野市に拡幅反対を表明しました。話し合いの末、拡幅計画を撤廃する事が出来ました。近年善光寺周辺は古い建物を活かしたリノベーションにより、昔ながらの路地を散策して町を楽しむ新たな文化が創造されています。朝夕に互いに声を掛け合える距離感、のんびりと散策する人の姿を見ると、この街並みを残すことが出来て良かったと思っています。
長商を卒業した皆さん、道は分かれて進んでいくと思いますが、長商で学んだ事、仲間、生涯あなたの一番の宝になると思います。自信をもって突き進んでください。
挑戦する習慣

竹内 正美(高37回)坂城町在住 千曲市立屋代中学校出身 サポートオフィス アン代表 長野県議会議員 元坂城町教育委員
後輩の皆様に様々な挑戦をしてほしいと願って、今原稿を書かせていただいています。
私が長野商業高校を進学先に決めた理由は、1日も早く社会に出て自立したいと考えていたからです。弟・妹が3人おり、経済的な理由から大学進学の選択肢は私にはありませんでした。ですから、高校の3年間で実践的な知識・技能が身に付き、社会で喜ばれる人間性を培うには長野商業高校が最適だと確信していたのです。
高校3年間では多くの資格を取得しました。そのおかげで第一希望の企業に就職することもできました。でも今思うと、一番有難かったのは「資格取得に向けて挑戦する習慣」が身についた事だったと実感しています。18歳で千曲市内の製造業に就職し人事課に配属されました。就職と同時に個人的に様々なことを学び、資格を取得し続けました。様々な分野を学びましたが、特に人事系の資格を多く取得しています。
結婚して子育てして、仕事も順調だった40歳の頃に夫が交通事故で身体障がい者となりました。この頃は特に多くの方にお世話になった時期です。夫を近くで支えるために私は退職し無職になりました。その時に助けとなったのが取得していた人事系資格です。産業カウンセラーやキャリアコンサルタント等の資格が注目され、様々な行政機関や企業・学校から講師・カウンセリングの仕事依頼が入り始めました。家事とのバランスがとれる範囲で受託し、起業する流れとなりました。これがサポートオフィス アンの誕生です。
2019年に挑戦した長野県議会議員も2期目です。県内でこうして活動できることは、お世話になった方々から受けた御恩の恩送りだと思っています。
長野商業高校に通った3年間で、目標に向けて挑戦する習慣が身についた事は私の人生の宝物です。人生百年の時代、これからも挑戦し続けていきます。
多様化の時代に向けて

轟 久志(高44回) 長野市在住 長野市立三陽中学校出身 (株)トドロキデザイン代表取締役 長野県デザイン振興協会理事 日本グラフィックデザイン協会会員 長野アートディレクターズクラブ会員 長野美術専門学校非常勤講師
高校時代、簿記やそろばんは好きでしたし、ワリとできる方でした。卒業後は短期大学の会計コースに進み、そのまま会計事務所に就職しました。しかし3年ほど過ぎてから、子どもの頃からなりたかったグラフィックデザイナーの夢を諦めきれず、会計事務所を辞めてデザインを一から勉強し、現在は長野市内でデザイン会社を経営しています。
「デザイン」というとアーティスティックで感性的なイメージを持たれる方もいるかもしれませんが、グラフィックデザインとはあくまで商業デザインであり、経済活動や商業的視点を考慮した上で考えることが必要な仕事です。そういう面では長商で学んだことが現在でも私の中で活かされており、「商業を学んだデザイナー」として糧になっています。
軟式野球部で3年間汗を流し、たいした成績は残せませんでしたが仲間にも恵まれ、楽しく充実した高校生活を過ごしました。長商デパートでは商業学習の実践の場として、お客様を意識した貴重な体験をさせていただきました。3年生の時は履物の売り場を担当し、商品をPRするために手作り看板を首から下げ、長靴を履いて校舎を歩き回った思い出があります。今思うと当時から私の中で「デザイン思考」が芽生えていたのかもしれません。仲間たちと同じ目的を持って、試行錯誤しながらいかに楽しく効果的な結果をうめるか。お客様の目を引き、興味を持ってもらえるか…。多感な時期の経験は後々の自分の役に立つものです。長商での3年間は私の礎になっています。
私の姪も長商出身で、彼女が在学中には毎年長商デパートに足を運びました。私が通っていた頃とそれほど変わっていない校舎から、当時の思い出がよみがえります。今もそこに校舎があるということで、心の支えになっている気がします。これからは多様化の時代で、より柔軟な発想が求められてきます。若い頃の経験や感受性は一生の宝になります。在校生には今の感性を大切に、今後の人生を送っていただきたいと思います。