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活躍する同窓生

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商科の矜持

水島 康明(高44回) 長野市在住         長野市立三陽中学校       TERMINAL51° 代表        趣味:料理        https://gugen.biz/archives/interview/mizushimamichiaki 
 
 平凡な一学生の思い出話ですが、現役生の歩みの参考になれば幸いです。長商を志望した動機は、憧れだった父がOBでしたので、私の志望校も長商一択でした。校長先生は「士魂商才」心は高く身は低く、長商は商いの修練道場であると、熱く仰っていたのを覚えています。資格は、簿記、珠算、商業法規3級、全商英検は1級に合格しました。2年次より大学を目指します。それも普通科の生徒と同じ一般入試で。長商には一般入試の進学カリキュラムがなかったので独学(+塾)となりました。
 1990年代初頭の受験生は約121万人。入学者数は79万人。 受験生の3人に1人、42万人近くが、大学・短大に入学を希望しながら入学できなかった時代でした。地方の小さな大学ではありましたが6.3倍の競争率を突破し現役合格できたことは一番の思い出です。大学では産業社会学という、産業と人間の関係性を学際的に学ぶ学部でした。簿記論をはじめ経済、法学の科目は商科の出身でしたので普通科出身の学生より優位でした。
 卒業後、家業に入り紙問屋を継ぎましたが、社会活動にも取り組みました。中でも29歳の時、長野オリンピックの理念を継承する「長野灯明まつり」の創設には全身全霊で取り組みました。その成功を受けて、社会活動がビジネスにならないか構想するようになりました。ボランティアである限り時間、金銭に制約が生じてしまいます。商家(科)の出身としてはビジネスとして成立させてこそ、持続的、発展的に活動できるようになると思いました。その思いは2024年5月に紙問屋を業種転換しコワーキングスペース事業「TERMINAL51°」に結実します。
 さらにTERMINAL51°に集う様々な人々とチームを組み、ビジネスを通じて社会課題を解決したいと考え、東京の大学院(社会構想研究科)で学んでいます。大人にとって3年という月日は何気に過ぎてしまいますが、学生時代の3年というのは非常に多くのことを成し遂げることができます。人と比較するのではなく、小さくても自分で納得のできる目標を掲げて「一日一生」を意識して挑戦してほしいと思います。

心は高く 身は低く

 伊東 拓宗(高55回) 長野市在住         鬼無里村立鬼無里中学校       有限会社いろは堂 代表取締役社長     https://www.go-nagano.net/food-and-drink/id20815 
 私は家業が商売をしていたこともあり、いつの間にか自分自身も商売に強く感心を持ち将来のことも考えて長商に進学しました。中学までは1学年14人ののんびりとした田舎の学校だったため、当時1学年280人の長商に入学した際は、とまどいがあったことを記憶しています。高校時代は弓道部に所属し年間350日以上弓を引くほど弓道に明け暮れていました。弓道は奥が深く、技術のみならず精神力を必要とし自分自身を俯瞰的に見る力も求められます。このあたりは現在も弓道で培った経験が役に立っていると感じます。また会社経営をする上で財務については高校時代に学んだ簿記の考え方がしっかりと生かされており、私はそれほど勉強が得ではなかったものの簿記の検定がある度に遅くまで補修をやっていてよかったと当時を思い出しています。
 私は現在(有)いろは堂と言うおやきの製造販売の会社を経営しています。「おやき」と言う長野の伝統ある食文化を内外に発信し広めていくこと、これは東京や大手企業ではできないオンリーワンの価値を提供できる仕事であり、そんな仕事を通じて地域に貢献していくことにやりがいと誇りを感じています。
 長商の校訓に「心は高く身は低く」とあります。この言葉は今自身の座右の銘として常に意識をしています。高校生の皆さんがこれから長い人生をよりよいものにするために、高い志を持って生きていくことが必要です。しかし自己の志のために周りを蔑ろにしたり見下すようでは自分自身も周りも幸せにはなりません。常に周囲に感謝の気持ちを持ち続けながら強い志を持って進む「強さと柔らかさ」が大切だと感じます。利己主義に傾倒している今の世の中だからこそ、これからより一層その姿勢が大切になっていくと感じます。長商生の今後のさらなる活躍を期待しています。

今を一生懸命に生きること

 坂田 吉久(高44回) 長野市在住  長野市立川中島中学校出身      坂田木材株式会社 代表取締役社長  株式会社 Reborn 代表取締役        長野県野球協会理事 技術委員会委員長  長野県高校野球OB・OG連盟事務局長  元長野商業高校野球部監督     現ABN高校野球解説          第43回長野びんずる事務局長     資格:二級建築士 既存住宅現況検査技術者 信州木の家マイスター   
 私の青春時代は、とにかく野球に明け暮れました。残念ながら母校長商時代に甲子園の夢を掴むことは出来ませんでしたが、大学でも野球を続け、結果的に、大学卒業時には社会人野球チームに内定を貰い、自分の体の動くうちは野球で生活をと意気揚々としていたことを想い出します。しかしながら、大学卒業間際に運命のいたずらに直面し、バブル崩壊、日本の景気が急降下し野球を続ける環境が奪われました。一見不幸と思われる状況から今となると新たな形で道が拓けることになります。急遽、地元長野に戻って来ることになり、そのことがきっかけで母校長商での野球の指導者としての道がスタートしました。そこから、15年母校で野球の指導に携わり、2000年にはコーチとして甲子園の土も踏みましたし、監督時代には体育教員という貴重な経験もさせて頂きました。
野球の話しが多くなりましたが、今は家づくりに携わる2つの会社の代表を務めています。1つは、創業76年を経過した坂田木材㈱という会社でもう1つの会社は、40歳の時に自ら起業した㈱Rebornという会社です。どちらの会社も住まいに直結した仕事をしています。住まいとは、生きる拠点であり、多くの人が一生のうち最もお金を費やす人生の一大事業です。当然の如くやりがいと自分たちが手掛ける家にプライドを持って仕事に邁進しています。
 私が在校生の皆さんに伝えたいことの一つは、皆さんの持っている可能性は凄いということです。自分の可能性を実感することは難しいかも知れませんが、皆さんの可能性に私は逆立ちをしても適いません。だからこそ、皆さんには『志』を持って欲しいと思いますし、『志』が見当たらなければ自分の興味のあるもの好きなことで『行動』を起こすことです。『行動』を起こし、『一生懸命さ』が加われば必ず道は拓けます。私も今は2つの会社の代表となり、仕事以外にも様々な社会活動に参加していますが、特別な能力があったわけではなく、目の前のことを一生懸命やってきたことで今があると感じています。時間は有限です。たった一度の人生、自分の可能性を信じ、一生懸命頑張りましょう。 

   坂田木材HP:https://sakata-mokuzai.com/ 

教育は仕事と生活の中に

 小林 勝彦(高24回) 飯綱町在住  牟礼村立牟礼中学校出身      学校法人クリエイティブA 理事長  長野美術専門学校 校長        クリエイティブファクト株式会社 代表取締役              長野県専修学校各種学校連合会 理事長     
 皆さんこんにちは。長商同窓生の一員として自己紹介と普段考えていることなどをお寄せいたします。
 私は、牟礼村(現飯綱町)の酒類の小売を営む兼業農家に生まれ、跡継ぎなら長商だ、というわけで本校に進学。在校中は美術部で、当時は部の伝統でデザインコンペへの応募が盛んでした。1972年に卒業。当時長商からは珍しかった美大に進学(7年前に一人)しました。美大では現役生は少なく、同級生はほとんど相当な年上で自分は子どものように見られ、人生最大のコンプレックスに見舞われた時期でした。卒業は就職難の時期。それでもなんとかデザイン業界に滑り込み、主にトヨタ自動車の広告制作に携わりました。中央産業の経済成長の要請で誕生した日本でも草分けのプロダクション(日本デザインセンター)でしたので、私も相当揉まれました。10年ほど勤めた後、帰郷し専門学校(長野美術専門学校)に入職。やはり10年ほどで非常勤になり、個人経営のデザインプロダクションを運営し始めたところで専門学校に呼び戻され校長に就任。デザイナー、酒屋や農業もと並業の日々を重ねてきました。
 さて本年、同窓会のお役目で本校の入学式に出席したところ、この少子化の時代に、思いの外大勢の新入生を目の前にし、明るい想いを抱きました。経済学者のスマイルズの「自助論」に “ 本当の教育は仕事と生活の中にある ” とありますが、実業に結びついた長商の精神が、今後もしっかりと受け継がれていくことを願っています。デザイン業で言えば長商在校当時に人気の新興職業だったデザイナーは、その後時が流れて、ずいぶん社会に馴染みました。まぁ正しく一般化しているかどうかは問題の残るところではありますが、生業として定着してきたと評価していいと考えています。そして美術ですが、これはそもそも全人的な性質を持っていますので、教育的には決して現在のような扱いでなく、特に初等・中等の人の育成に必須であると強く想っています。美術は、人間の基礎力を尊重するリベラルアーツに間違いないのですから。

クラリネット奏者として

 傳田 高廣(高20回)  長野市在住     長野市立柳町中学校出身           クラリネット奏者
 音楽との出会いは柳中吹部。次の長商吹部で初めてクラリネットを手にし、当時新任の室星道彦先生の指導で、コンクールでは指揮者まで経験。長商デパートでは先生のピアノでモーツァルトを演奏。音楽の道が開きました。「音大に行く」と言うと、先生は「いいと思う」と、母の説得までしてくれました。先ずは音大講習会に行ったら異次元の世界。知らない事ばかりでしたが、その時の先生がレッスンに来いと言ってくれたので、東京に通い始めました。真夜中2時の能登に乗り、朝東京に着き、先生のお宅でレッスン。叱られ、他の生徒のレッスンを一日聞いて帰る、というハードなものでしたが鍛えられました。武蔵野音大に入り毎日練習の日々。でも、やれば伸びたし、曲や楽器に関わる専門の勉強は意外に楽しいものでした。4年の時、全日本コンクールで入賞したのを機に留学を決意。ドイツ、ケルンでフランツ・クライン氏に師事。色々な国の学生が集まる音大の寮は賑やかで、中には後にベルリンフィルのコンサートマスターになった友達もいます。ある時彼が須坂メセナホールへコンサートに来ると知り、会いに行ったら、「お前ここで何やってるんだ!」と感激の再会でした。留学中に、以前から尊敬するシュタルダー氏のコンサートに行き「今だ!」と直談判。一度は断られましたが諦めずスイスまで会いに行くと、演奏を聞いてくれ「来てよい!」となりました。ただ、先生につくのにスイスに移住、バーゼル音楽院の学生になる為煩雑な手続きがあったのを、先生は自ら保証人になるなど様々本当に大変お世話になりました。先生とはその後長野にお呼びして共演しています。広く深い見識をお持ちで、大いに触発され世界が広がりました。おかげでソリストデュプロマを取得して卒業。その間、個人や地元吹奏楽団などを指導。今も交流が続くスイス人の仲間が沢山います。帰国後は信大と小諸高音楽科で教え、演奏活動。ドイツ・バッハゾリステン、仏リヨン管弦楽団、ライプツィヒ弦楽四重奏団、ウィーン・ムジークフェライン弦楽四重奏団などと共演。年一回のリサイタルは今も続けています。若い皆さんにはやればできると伝えたい。

信州商人道の教え

 高野 登(高24回)  東京都在住  戸隠村立戸隠中学校出身      人とホスピタリティ研究所 代表     「ホテルマンが実践している本当の気づかい」他 著書23冊
 長商を卒業したあと、日本ホテルスクールに進み、卒業後に北野建設東京本社に入社した。高校の大先輩である故北野次登社長が経営する会社だ。北野建設は、当時ニューヨークのホテルを買収したばかりで、ボクは「ホテル・キタノ」の開業要員として採用された。東京での研修を経て、1974年にニューヨークに赴任した。20代のボクにとって、アメリカはとても刺激的だった。いろいろな誘惑も多かった。しばらくしてバブル景気が始まり、いわゆる「うまい話」も絶えず舞い込んできた。そんな状況の中で、大きな間違いも犯さずに、20年間を過ごすことができたのは、高校時代に叩き込まれた「長商魂」のお蔭だと思っている。当時、数学を担当していた故森山茂平先生は、授業中にしょっちゅう脱線して、それが実に面白かった。こんな話もしてくれた。
「いいか、よく聞け。信州の商人は、たとえ最小の結果しかみえなくても、最大の努力を惜しまないものだ。それが商人道というものだ。それなのに今の商人達の多くは、最小の努力で、最大の儲けを得ようとしている。実に情けない話だ。お前たちには長商魂を胸に秘めて、信州商人道を貫いてほしい」。
まだバブルが始まるだいぶ前の話しである。いま振り返ってみるとその慧眼に驚かされる。
森山先生の教えは、アメリカに渡ったあともずっとボクの心に残っていた。アメリカでのバブル期の誘惑は半端ではなかった。ビルを買う、ゴルフ場を買う、ビジネスを買う。その手伝いをするだけで、千ドル単位の小遣いが稼げた。一歩間違えれば、大変なことになる。そのたびに、信州商人道の教えが心に浮かび、ブレーキをかけてくれた。アメリカでも、帰国した後も、ボクの働き方、在り方を支えていたのは、この信州商人道と長商魂の教えであったことは確かである。

頑張れフレ・フレ長商

 塚田 篤雄(高27回) 長野市在住  長野市立柳町中学校出身       長野県商店会連合会 会長  一般社団法人北信越霊柩自動車協会 会長     長野市商店街の活性化連絡協議会 会長 (株)まちづくり長野 取締役     善光寺御開帳奉賛会 副会長     長野商工会議所 参与 他多数       叙勲 瑞宝単光章(平成28年秋)
 私は生まれも育ちも長野市、善光寺の東側に位置する東之門町で葬祭業を生業とする家で育ちました。小さい頃の遊び場は近所にある神社、城山の林や川でした。城山は今の様に整備されておらず、動物園が出来たのも私が五歳のころでした。当時は善光寺を中心としたエリアが市街地で、子供たちも沢山いましたし、生活に必要なものはすべて揃うほど商店の数も多く、賑やかでした。
 私は男三人兄弟の末っ子だったので家業を継ぐ気はなかったのですが、兄二人が家を出ていき、小さい頃から両親の働く姿を見てきましたので、「頼む」と言われて継ぐことを決めました。大学進学を諦め新潟で二年間家業の修行をして戻ってからは四代目として葬祭の仕事に誇りをもって取り組みました。今、コロナ禍葬儀の在り方も大きく様変わりしています、それでも大切な方を送る志は今も昔も変わりません。残されたご家族に寄り添い、故人を敬い、人生の大切な節目のお手伝いをさせていただいております。
 高校時代はソフトテニスで始まり、三年間朝練習、昼コート整備、夕方練習に明け暮れる日々を送っていました。学業もそれなりに悪くはなかったと思っています。三年生の時、福岡県のインターハイに出場し、初めて飛行機に乗ったことが大変嬉しかったことを思い出します。続いて、茨城国体にも出ることが出来ました。まだ破られていないと思いますが、兄弟三人とも長商のソフトテニス部で長野市長杯を優勝しています。私としてはどうしても取りたかった大会だったので、プレッシャーが大きかった事を覚えています。
 長野商店会連合会との関わりは、自分の町の道路拡幅計画がきっかけです。昔ながらの商店街を残したい、拡幅されると商店が無くなってしまう事態になります。地元商店をまとめて、「東参道商店会」を結成、連合会に加盟して長野市に拡幅反対を表明しました。話し合いの末、拡幅計画を撤廃する事が出来ました。近年善光寺周辺は古い建物を活かしたリノベーションにより、昔ながらの路地を散策して町を楽しむ新たな文化が創造されています。朝夕に互いに声を掛け合える距離感、のんびりと散策する人の姿を見ると、この街並みを残すことが出来て良かったと思っています。
 長商を卒業した皆さん、道は分かれて進んでいくと思いますが、長商で学んだ事、仲間、生涯あなたの一番の宝になると思います。自信をもって突き進んでください。
 

挑戦する習慣

 竹内 正美(高37回)坂城町在住 千曲市立屋代中学校出身      サポートオフィス アン代表     長野県議会議員 元坂城町教育委員
 後輩の皆様に様々な挑戦をしてほしいと願って、今原稿を書かせていただいています。 
 私が長野商業高校を進学先に決めた理由は、1日も早く社会に出て自立したいと考えていたからです。弟・妹が3人おり、経済的な理由から大学進学の選択肢は私にはありませんでした。ですから、高校の3年間で実践的な知識・技能が身に付き、社会で喜ばれる人間性を培うには長野商業高校が最適だと確信していたのです。 
 高校3年間では多くの資格を取得しました。そのおかげで第一希望の企業に就職することもできました。でも今思うと、一番有難かったのは「資格取得に向けて挑戦する習慣」が身についた事だったと実感しています。18歳で千曲市内の製造業に就職し人事課に配属されました。就職と同時に個人的に様々なことを学び、資格を取得し続けました。様々な分野を学びましたが、特に人事系の資格を多く取得しています。 
 結婚して子育てして、仕事も順調だった40歳の頃に夫が交通事故で身体障がい者となりました。この頃は特に多くの方にお世話になった時期です。夫を近くで支えるために私は退職し無職になりました。その時に助けとなったのが取得していた人事系資格です。産業カウンセラーやキャリアコンサルタント等の資格が注目され、様々な行政機関や企業・学校から講師・カウンセリングの仕事依頼が入り始めました。家事とのバランスがとれる範囲で受託し、起業する流れとなりました。これがサポートオフィス アンの誕生です。
 2019年に挑戦した長野県議会議員も2期目です。県内でこうして活動できることは、お世話になった方々から受けた御恩の恩送りだと思っています。
 長野商業高校に通った3年間で、目標に向けて挑戦する習慣が身についた事は私の人生の宝物です。人生百年の時代、これからも挑戦し続けていきます。

多様化の時代に向けて

轟 久志(高44回) 長野市在住  長野市立三陽中学校出身      (株)トドロキデザイン代表取締役 長野県デザイン振興協会理事    日本グラフィックデザイン協会会員 長野アートディレクターズクラブ会員 長野美術専門学校非常勤講師
 高校時代、簿記やそろばんは好きでしたし、ワリとできる方でした。卒業後は短期大学の会計コースに進み、そのまま会計事務所に就職しました。しかし3年ほど過ぎてから、子どもの頃からなりたかったグラフィックデザイナーの夢を諦めきれず、会計事務所を辞めてデザインを一から勉強し、現在は長野市内でデザイン会社を経営しています。
「デザイン」というとアーティスティックで感性的なイメージを持たれる方もいるかもしれませんが、グラフィックデザインとはあくまで商業デザインであり、経済活動や商業的視点を考慮した上で考えることが必要な仕事です。そういう面では長商で学んだことが現在でも私の中で活かされており、「商業を学んだデザイナー」として糧になっています。
軟式野球部で3年間汗を流し、たいした成績は残せませんでしたが仲間にも恵まれ、楽しく充実した高校生活を過ごしました。長商デパートでは商業学習の実践の場として、お客様を意識した貴重な体験をさせていただきました。3年生の時は履物の売り場を担当し、商品をPRするために手作り看板を首から下げ、長靴を履いて校舎を歩き回った思い出があります。今思うと当時から私の中で「デザイン思考」が芽生えていたのかもしれません。仲間たちと同じ目的を持って、試行錯誤しながらいかに楽しく効果的な結果をうめるか。お客様の目を引き、興味を持ってもらえるか…。多感な時期の経験は後々の自分の役に立つものです。長商での3年間は私の礎になっています。
 私の姪も長商出身で、彼女が在学中には毎年長商デパートに足を運びました。私が通っていた頃とそれほど変わっていない校舎から、当時の思い出がよみがえります。今もそこに校舎があるということで、心の支えになっている気がします。これからは多様化の時代で、より柔軟な発想が求められてきます。若い頃の経験や感受性は一生の宝になります。在校生には今の感性を大切に、今後の人生を送っていただきたいと思います。
2024年12月
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同窓会館開館日(午後)     月、(火)、水、第2・第4土曜
  • 土曜開館日
  • 年末年始休業(12/24~1/13)
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長商同窓会事務局
〒380-0872
長野県長野市妻科243
TEL.026-232-5870
FAX.026-217-0355.
E-mail
chosho10@mx1.avis.ne.jp
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